2008年 12月 13日
岡本太郎と芸術 |
岡本太郎の大壁画「明日の神話」が渋谷の井の頭線と東急線の連絡通路の壁面に展示されたという事を聞き、見てきました。大変強い衝撃を受けました。すばらしい光景です。それは私が頭に描いた光景と寸分違っていませんでした。あの作品は美術館に静かに置かれるのは似合わなくて、大勢の人が行き来するあの場所に置かれてこそ生きると思いました。誰がどういう経緯でこのような事を企てたのか知りませんが、とにかく拍手喝采したい。太郎さんが言う通り、彼の絵は決してきれいではなく、実にいやったらしく、そして、生きる力に満ちていました。
その日の夜、早稲田の私が受け持っている映像学科の空間デザイン論の授業で、1950年代に出版された岡本太郎の「今日の芸術」を取り上げ、芸術の役割について議論しました。そこで出た学生諸君からの意見は私にとっても刺激的でした。
芸術は生きる事そのものだと言う太郎さんの言葉は私たちを未だ強く魅了するが、21世紀の芸術は50年前とは確実に変わってきていて、芸術的表現が人間同士のコミュニケーションや意識の共有を計るための大事な手だてになっていると言う意見。正にその通りで、貧困、暴力、民族や宗教間の紛争、環境問題、性、何でもない日常、それら人間の存在故に付きまとう様々な問題に関して芸術家は深く関わり、それを表現し、解決するための糸口を探ろうとしている。先日閉幕した横浜トリエンナーレに出品された作品もしかり。人間の存在に深く関わろうとする時、きれいな部分だけを取り上げる訳にはいかず、醜いものも、隠したいものも全て等価に総動員せざるを得ない。太郎さんが50年前発した「芸術はきれいであってはならない」と言う名言は今日、芸術家の卵たちにとっては至極当たり前のものとして、驚きをもって受け入れられるような言葉では既に無かった様でした。
また、太郎さんが頻繁に繰り返す「新しい」「前例がない」と言う基準に、今日価値を見いだせるだろうか?と言う意見。確かに彼が教育を受けた20世紀モダニズムは「新しさ」に最大の価値を置いていた。芸術の役割は、これまでの意識をまったく一新させること。そのための表現は新しくなくては本当にだめか?と言う問い。「新しさ」に関する21世紀の新たな哲学が必要かも。なかなか難しく、重要な問いです。
太郎さんを担ぎだしての、濃い1時間半でした。
その日の夜、早稲田の私が受け持っている映像学科の空間デザイン論の授業で、1950年代に出版された岡本太郎の「今日の芸術」を取り上げ、芸術の役割について議論しました。そこで出た学生諸君からの意見は私にとっても刺激的でした。
芸術は生きる事そのものだと言う太郎さんの言葉は私たちを未だ強く魅了するが、21世紀の芸術は50年前とは確実に変わってきていて、芸術的表現が人間同士のコミュニケーションや意識の共有を計るための大事な手だてになっていると言う意見。正にその通りで、貧困、暴力、民族や宗教間の紛争、環境問題、性、何でもない日常、それら人間の存在故に付きまとう様々な問題に関して芸術家は深く関わり、それを表現し、解決するための糸口を探ろうとしている。先日閉幕した横浜トリエンナーレに出品された作品もしかり。人間の存在に深く関わろうとする時、きれいな部分だけを取り上げる訳にはいかず、醜いものも、隠したいものも全て等価に総動員せざるを得ない。太郎さんが50年前発した「芸術はきれいであってはならない」と言う名言は今日、芸術家の卵たちにとっては至極当たり前のものとして、驚きをもって受け入れられるような言葉では既に無かった様でした。
また、太郎さんが頻繁に繰り返す「新しい」「前例がない」と言う基準に、今日価値を見いだせるだろうか?と言う意見。確かに彼が教育を受けた20世紀モダニズムは「新しさ」に最大の価値を置いていた。芸術の役割は、これまでの意識をまったく一新させること。そのための表現は新しくなくては本当にだめか?と言う問い。「新しさ」に関する21世紀の新たな哲学が必要かも。なかなか難しく、重要な問いです。
太郎さんを担ぎだしての、濃い1時間半でした。
by ito-kan
| 2008-12-13 01:15